トップに戻る田辺の偉人・南方熊楠
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南方熊楠(みなかたくまぐす・1867〜1941)

南方邸の隣に、南方熊楠顕彰館ができました。

* 南方熊楠は、慶応3年4月、和歌山城下に生まれました。
 少年時代は、学校の授業に出ず、植物の採集に山ばかり入っており、数日行方不明になったことから、天狗にさらわれたと噂され、「てんぎゃん」いわゆる「天狗さん」と呼ばれていたと言います。
 また、近所の家で書物を借覧し、漢文で綴られた当時の百科事典「和漢三才図会」百五巻などの写本を作り上げた程、神童ぶりを発揮しました。後に熊楠は、十数か国語を使いこなしたということですから、既に少年時代にして、その非凡な才能が開花していたと言えます。

*  和歌山中学校卒業後、上京し、東京大学予備門に入学しましたが、熊楠の学問への欲求が満たされず程なく退学。20才で渡米し、各地を巡り、動植物の実地調査・研究に没頭しました。
 その後26才でロンドンへ渡り、科学雑誌「ネイチュア」に「東洋の星座」という論文が掲載されたことにより、その名が知られ、大英博物館の嘱託職員に迎えられました。大英博物館では、仕事をしつつ、読書と筆写に明け暮れ、その中で作り上げた「ロンドン抜書」は、民俗学や博物学等について、52冊・1万800ページにわたり丁寧に書きつけています。

*  34才で帰国し、3年あまり植物の宝庫である熊野の山々を踏破調査し、37才から田辺に住み続けるようになり、49才で終の栖となる現在の南方熊楠邸に居を構えました。
 南方熊楠旧居  南方熊楠顕彰館(南方熊楠邸隣)
 そこに南方植物研究所を設置し、中国建国の父・孫文や民俗学者・柳田国男など世界の諸学者と交流しつつ、博物学・民俗学をはじめとして、あらゆる分野にわたる研究生活を送り、ミナカテルラ・ロンギフィラ(南方の長い糸)という新種の粘菌を発見するなど世界的業績を挙げました。

キャラメルの箱 また、昭和天皇が神島にお越しになった際、百十点余りの粘菌の標本をキャラメルの箱に入れて御進献したことは、熊楠らしさのあらわれた有名なエピソードです。
 中央学会から離れて活動していたため、長らく伝説的存在であったこの巨大な思想家・南方熊楠は、没後50周年を経て、ようやくその真価が認められつつあります。
従来、奇人学者として取り上げられることの多かった熊楠が、実は当時の日本にあって最も力強い学問の流れを形成しようとしていたことが、定説として認知されるようになってきています。
「日本人の可能性の極限」とまで賞賛された熊楠の深遠な精神のなぞ解きは、まだはじまったばかりです。


南方熊楠ゆかりの地
南方熊楠旧居 稲荷神社 神島 ひき岩群 高山寺
リンク 南方熊楠顕彰館(南方熊楠邸隣)

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