黒潮の恵みにより冬は暖かく、夏は比較的涼しい温暖な地域の田辺市。
その町の概要と、田辺で生まれ育った偉人達をご紹介します。

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武蔵坊弁慶ゆかりの品と史跡

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闘鶏神社

toujinja.jpg允恭(いんぎょう)天皇8年(419年)の創建。
古くは新熊野鷄合大権現(いまくまのとりあわせだいごんげん)と呼ばれていたものが明治維新の折、鬪雞神社と改められた。
源平の戦いに、弁慶の父、熊野別当湛増が社前で紅白の鶏をたたかわせたと伝えられ、平家物語に名高い鶏合(とりあわせ)壇浦合戦は、ここが舞台である。社宝として、弁慶産湯の釜、源義経鍾愛の笛などがある。

※闘鶏神社は、正しくは『鬪雞神社』と書きます。

 

闘鶏神社内と周辺の弁慶ゆかりの品と史跡

湛増・弁慶の像

昭和62年5月3日、闘鶏神社境内に武蔵坊弁慶・熊野水軍出陣800年祭を記念して、湛増・弁慶の父子像が建立された。父子で鶏合せをじっと見つめる姿は、私たちに800年の時の流れを忘れさせ、その静かな境内に鬨の声が聞えてきそうである。

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弁慶生誕地の碑

闘鶏神社近くの大福院にある弁慶生誕地の碑。

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横笛〔銘白龍〕-闘鶏神社蔵

源義経鐘愛の笛であると言われ、亨和元年酉10月27日領主安藤道紀によって奉納された。

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湛増の鉄烏帽子-闘鶏神社蔵

弁慶の父親である熊野別当湛増が身に着けていたと伝えられており、産湯の釜同様明治の初めに大福院から闘鶏神社に移された。

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湛増の鉄扇-闘鶏神社蔵

熊野別当湛増所持と伝えられている。

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弁慶産湯の釜-闘鶏神社蔵

弁慶出生の時、産湯を沸した釜と言われており、大福院にあったものを、明治の初めに闘鶏神社に移された。

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弁慶の腰掛石

kosikake.jpg弁慶の腰掛石は、田辺第一小学校裏手の八坂神社にあり、弁慶が少年時代この石に座ったと言われており、お尻の形の窪みができている。

熊野水軍出陣の地碑

9fa7d7c241826bdbc24060b619d1e83c.JPG扇ヶ浜公園にあるカラー噴水のすぐ近くに、熊野水軍出陣の地碑が建っている。この碑は、弁慶の父である熊野別当湛増が、壇ノ浦の合戦において、源氏の味方をす るために、文治元年(西暦1185年)二千余人の兵を引きつれて、扇ヶ浜から出陣した史実を後世に残すため昭和47年10月に建立したものである。

第六代目弁慶松・弁慶産湯の井戸

ido.jpg三代目弁慶松は江戸時代の藩主安藤氏が闘鶏神社の裏山から移植したもので、高さ15メートル、周囲4メートルの巨木となっていたが、昭和50年に枯死した。  しかし、現在その種子から育った弁慶松が、市役所や岩手県平泉の弁慶の森で育っている。  弁慶の産湯の水を汲んだと伝えられている産湯の井戸は、昭和35年まで田辺第一小学校内にあったが、平成元年田辺市役所に復元した。

弁慶観音-海蔵寺蔵

5c0d7c0cd85a04e0713ef3ddf074f656.JPG県文化財に指定されており、指定書によれば鎌倉期とされている。像は全体に煤黒く宝冠を頂き、胸にようらくをかけ、右手に蓮花を持ち、左手に施無畏(せむい)印を結んだ坐像で、像高1メートル(ただし宝冠を除く)、肩幅55センチメートル、体内銘は現時点では見出されていない。弁慶の父親である熊野別当 湛増が源平合戦の時、壇ノ浦の決戦にこの像を軍船に安置して戦勝を博したと伝えられている。

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