本文にスキップ

伝説の豪傑 武蔵坊弁慶

たなべの三偉人のひとり 武蔵坊弁慶

源義経に仕えた伝説の豪傑

「弁慶の泣き所」、「内弁慶」といった言葉の由来にもなり、豪傑の代名詞として語られる武蔵坊弁慶。その生涯は「義経記」や「弁慶物語」などを基に伝説として語られることが多く、実態は明らかではありませんが、田辺は弁慶生誕の地として有力視されています。 一説によると、弁慶は熊野別当の嫡子として誕生。幼名は鬼若と言い、母の胎内で18ヶ月過ごし、生まれたときから2~3歳の体格で、髪は肩まで伸び、歯も生えそろっていたという話も。比叡山での修行ののち自らを西塔武蔵坊弁慶と名付け、以来その名で知られるように。京都で源義経と出会った弁慶は、義経に仕え、その智謀と怪力で活躍するも、最期は奥州衣川にて義経を守るため戦い、全身に矢を受けながら立ったまま絶命。その壮絶な最期は「弁慶の立往生」と語り継がれています。

源平合戦の命運を分けた湛増と弁慶

田辺には弁慶にまつわる史跡や逸話が残りますが、なかでも有名なのが、源平合戦の命運を分けたともいわれる「鶏合神事」。源平合戦の頃、当時最強と言われた熊野水軍を率いていた熊野別当・湛増(弁慶の父とされる)は、源氏と平家の両者から援軍を求められました。どちらに味方するか決めかねた湛増は、新熊野権現社(現在の闘鶏神社)の神前で7羽ずつの鶏を戦わせて神意を確かめることに。すると源氏側の鶏がことごとく勝利したため、源氏に加勢することを決め、熊野水軍200隻を出陣させました。このとき、源氏側の遣いとして訪れたのが湛増の子である弁慶だったと言われています。

武蔵坊弁慶とたなべ

田辺は弁慶生誕の地!?

弁慶さんの話は伝説として語られることが多く、彼が実在した人物かどうかは正確にはわかりません。生誕の地とされる場所は実は全国各地にありますが、熊野別当の嫡子であるという説や産湯の釜、産湯の井戸、弁慶の腰掛石といった幼少期にまつわる史跡が多く残ることから田辺が生誕の地として有力視されています。

田辺に息づく弁慶さん

奥州衣川での弁慶の最期を伝え聞いた田辺の人は、その生涯を偲んで弁慶松を植え、いまも代々植え継がれています。まちの玄関口であるJR紀伊田辺駅前には高さ3m、重さ2tもの弁慶像が立ち、秋の弁慶まつりでは数百人もの参加者が連なり踊る弁慶ゲタ踊りなどが行われ、まちをあげた賑わいに。田辺を巡ると文献では語られない弁慶さんのストーリーを感じることができるかもしれません。


弁慶さんゆかりのイベント

弁慶まつり
弁慶市