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合気道の開祖 植芝盛平さん

たなべの三偉人のひとり 植芝盛平さん

世界140の国と地域で愛好される「合気道」を創始

1883年、西ノ谷村(現在の田辺市上の山)に生まれた植芝盛平さんは、様々な武術遍歴と精神的修養を重ね、独自の武術を創始。のちに「合気道」と名付けられたその武道は、いまや世界140の国と地域の人々に親しまれています。合気道の神髄は和合の精神であり、いたずらに強弱を競わず互いに切磋琢磨しあうことで心身を磨くことを目的としています。

合気道の普及に力を注いだ盛平さんは、つねづね「合気とは敵と戦い敵をやぶる術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である」と述べています。この精神が世界で親しまれる所以となり、そのルーツを探して田辺を訪れる合気道愛好家が後を絶ちません。

数々の神技エピソード

武道家として数々の逸話を残す盛平さん。実は幼少期は身体が弱く内気な性格だったそうですが、父の勧めではじめた相撲や水泳がきっかけで心身たくましく成長。中学校を出ると税務署、文房具店経営、陸軍、北海道開拓団団長といった経歴を重ね、陸軍では「兵隊の神様」、北海道白滝村では「白滝王」と称えられるほどに活躍しました。

また、男7、8人でびくともしなかった松の木を1人で抜く、剣道教士の海軍将校の打ちこむ攻撃を木の葉のようにかわしてしまう、力士を投げ飛ばす、壁に人差し指だけをつけた状態で2人の柔道家を腕にぶら下げる、といった数々の神技エピソードを残します。

植芝盛平さんとたなべ

たなべでの暮らし

合気道の開祖として知られる盛平さんですが、その経歴は税務署職員、文房具店経営、陸軍、北海道開拓団とさまざま。29歳で開拓団団長として北海道へ行くまでの多くは田辺で過ごし、税務署時代には重税に反対した地元漁師の味方をして免職になったり、南方熊楠が起こした神社合祀反対運動に協力し熱心に活動したこともあったとか。若かりし頃の人柄を感じるエピソードが残ります。

受け継がれる合気道の心

厳しい修行を経て創始した独自の武道を正式に「合気道」と呼称したのは盛平さん59歳の頃。以降、その神髄を正しく伝えるため国内外で合気道の普及に力を注いだ盛平さんは86歳で逝去し、田辺の高山寺のお墓に眠っています。田辺には、幼少期を過ごした生家や学問を習った寺が残り、扇ヶ浜公園には盛平さんの像や記念館併設の武道館が建てられ、盛平さんのルーツや痕跡を探して世界中の合気道愛好家が訪れます。